マルコ・ポーロといえばヴェネツィア共和国(現在のイタリア)の商人であり中国や中央アジアについて書かれた「東方見聞録」の著者としても有名です。また、彼が日本のことをヨーロッパに「黄金の国ジパング」と伝えたことを学校で習った人も多いのではないでしょうか?
しかし、イタリアの研究チームはマルコ・ポーロの「東方見聞録」はさまざまな人々から伝え聞いた話をまとめたもので、実際には黒海より東に行ったことが無かったと主張しています。
イタリアの研究チームによると、マルコ・ポーロは黒海周辺での行商をしていたときに、行商仲間からモンゴルや日本などの神秘的な国の話を伝え聞き、それをまとめたものが「東方見聞録」だといいます。「東方見聞録」では、マルコ・ポーロ自身が1271年~1291年の間にペルシャ、中央アジア、東アジアを旅したことになっています。また、中国に滞在中には当時の支配者であるフビライ・ハンに仕えていることになっています。
しかし、1274年と1281年におけるフビライ・ハンが試みた日本への侵略攻撃(元寇)についての記述がとても曖昧であり、1回目の遠征と2回目の遠征の内容がごちゃ混ぜになっています。このことについてナポリ大学の考古学教授ダニエル・ペトレルラ氏は「7年間も間が空いている戦争の記述を混同できるのか?」と述べている。
さらにマルコ・ポーロが記述している船のマストは五角形ですが、日本から出土したものは正方形でした。加えて、中国の地名の記述に現地の中国式の地名ではなくペルシャ式の地名を使っていることも疑問だとしています。極めつけが、マルコ・ポーロはフビライ・ハンに仕えていたことになっていますが、中国の資料にマルコ・ポーロが仕えていた記録は見つかっていません。
これらのことから、冒険から帰ってきたマルコ・ポーロが刑務所内で「東方見聞録」を”ピサ”という名前の囚人仲間に代筆してもらった際に、”ピサ”が話を装飾つまり「盛った」のだろうとしています。
これまで、マルコ・ポーロが壮大な冒険をしたと教えられてきましたが、本当は違ったようです。歴史は常に暫定的且つ便宜的であることを思い知らされますね。