中国との間で揺れている尖閣諸島(沖縄県石垣市)のひとつ、大正島について、中国・明から1561年に琉球王朝(沖縄)へ派遣された使節、郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に「琉球」と明記されていたことが、石井望・長崎純心大准教授(漢文学)の調査で分かりました。中国は尖閣諸島を「明代から中国の領土で台湾の付属島嶼(とうしょ)だった」と主張していましたが、今回の発見でその根拠が大きく崩れることになります。
尖閣の帰属に関しては、1895年に日本が正式に領有した後の1920年、魚釣島に漂着した中国漁民を助けてもらったとして中華民国駐長崎領事が石垣の人々に贈った「感謝状」に「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていたことが明らかになっています。しかし、今回のように明代にも琉球側と記していた中国史料の存在が明らかになるのは初めてとなります。
上奏文が収められていたのは、郭が書いた文書を集めた『石泉山房文集』。このうち、帰国後に琉球への航海中の模様を上奏した文のなかで「行きて閏(うるう)五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記していました。現在の中国は大正島を「赤尾嶼(せきびしょ)」と呼んでいます。
石井准教授によると「渉る」は入る、「界地」は境界の意味で、「分析すると、赤嶼そのものが琉球人の命名した境界で、明の皇帝の使節団がそれを正式に認めていたことになる」と指摘しています。
石井准教授の調査ではこのほか、1683年に派遣された清の琉球使節、汪楫(おうしゅう)が道中を詠んだ漢詩で「東沙山(とうささん)を過ぐればこれ●山(びんざん:※●=門の中に虫)の尽くるところなり」《現在の台湾・馬祖島(ばそとう)を過ぎれば福建省が尽きる》と中国は大陸から約15kmしか離れていない島までとの認識を示していたことも分かりました。
その後に勅命編纂(へんさん)された清の地理書『大清一統志(だいしんいっとうし)』も台湾の北東端を「鶏籠城(けいろうじょう)(現在の基隆(きりゅう)市)」と定めていたことが、すでに下條正男・拓殖大教授の調べで明らかになっています。
中国は尖閣周辺の石油資源などが明らかになった1970年ごろから領有権を主張し始め、1971年12月の外務省声明で「釣魚島などの島嶼(尖閣諸島)は昔から中国の領土。早くも明代にこれらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域の中に含まれており、それは琉球(沖縄)に属するものではなく台湾の付属島嶼だった」と根拠づけていました。
石井准教授は「中国が尖閣を領有していたとする史料がどこにもないことは判明していたが、さらに少なくとも大正島を琉球だと認識した史料もあったことが分かり、中国の主張に歴史的根拠がないことがいっそう明白になった」と指摘しています。
今回の調査で、少なくとも尖閣諸島の一部が明代(1368年 – 1644年)から琉球の支配が及んでいたことが明白になっただけでなく、現在の使われている呼び名までも琉球によって名付けられたものが元になっていることが明らかになりました。
この調査結果に対して、中国がどのような対応をとるのかが非常に注目されます。
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やつらのことだから琉球は中国のモノとか言い出しかねない